伊藤詩織さん『Black Box Diaries』論争が問う日本の民主主義
家族や支援者をも批評的に描く
ジャーナリストの伊藤詩織さんが性暴力を受けた後の日々を描いた映画、『Black Box Diaries』を観た。

イギリス版Amazon Prime Videoの『Black Box Diaries』のサムネイル。筆者はVPN経由で日本で視聴した
伊藤さんを責めるように話す警察官。被害の公表を止めようとする家族。伊藤さんを応援しながらも彼女を「強姦された人」と呼ぶ政治活動家。突然罵倒する見知らぬ人。裁判での証言を快諾するドアマンの男性。寄り添う友人たち。
性暴力をきっかけに、様々な人々が伊藤さんの感情を揺さぶり、時にナイフで抉るように心を傷つけ、時に安堵の涙を流させる。そのさまが約10年間撮り溜められた映像や音声によって、生々しく描かれていた。
あらゆる意味で、性暴力の被害者の立場は弱い。
性暴力による身体的、精神的な痛みは周囲から理解されないことが多く、「あなたの服装が悪い」「抵抗しなかったのが悪い」などとセカンドレイプを受けることもある。
司法に訴えようにも立証がなかなか難しく、起訴できても「性犯罪裁判傍聴マニア」が裁判所で列をなすなど、好奇の目に晒される。
そのため、支援者の存在が重要となるが、その支援者も「あなたのためにならない」と加害者を訴えることを阻んだり、露出の高い服装を控えるよう助言するなど、被害者の言動を制限することがある。
伊藤さんのように被害を社会へ公表した被害者に対しては、被害者を応援しながらも、被害者が自らの考えと異なる言動をすると苛烈に批判する人もいる。
支援者によるこうした「理想の被害者像」の押し付けは、敵対者からの攻撃とはまた異なる残酷さをもって被害者を傷つけ、じりじりと尊厳を奪っていく。
『Black Box Diaries』は、こうした性暴力の被害者に降りかかる多様な抑圧と、対する伊藤さんの反応を描くことで、「理想の被害者像」の破壊を試みた作品だ。私はそう解釈した。
だから本映画では、伊藤さんに関わる人々を「支援者」「敵対者」という枠組みにきれいに収めず、是々非々で描いているように見える。
論争の火種となった無許諾使用
この映画は、日本で未公開となっている。どのような団体・人物がどのようなプロセスで未公開という意思決定をしたのか──。詳細は明らかになっていないものの、使用された音声・映像の許諾を得られていないことが原因と言われている。
問題と指摘されているのは、ホテルの防犯カメラ映像、警察官の音声、タクシー運転手の映像、弁護士の電話音声、メディア勤務女性の集会映像だ。
この中で、議論が活発になされている次の2点について考えたい。
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ホテルの防犯カメラ映像
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警察官の音声
1.ホテルの防犯カメラ映像
本映画では、伊藤さんと元TBS記者の山口敬之氏がタクシーを降りホテルへ入る様子を映した、防犯カメラの映像が使用されている。
衝撃的な映像だ。
山口氏が先にタクシーから降りるが、伊藤さんは降りてこない。山口氏がもう一度タクシーに入り伊藤さんを降ろそうとするが、伊藤さんはやはり降りてこない。山口氏に引っ張られるような形でようやく降りてきた後は、身体を支えられながらホテルに入っていった。ふらついた足取りで、自力で歩けないまま引き摺られているようだ。
この映像使用が問題視されている理由は、入手のプロセスだ。
本映像は伊藤さんが山口氏へ損害賠償を求めた民事訴訟で、ホテルから伊藤さんへ提供された。そのとき伊藤さんは「民事訴訟以外では使わない」という内容の誓約書を交わしたという。
その後、映画制作にあたりホテルに許諾を取ろうとしたが得られず、結局、無許諾のまま使用することになった。

結論から言うと、私はジャーナリズムにおける公益性の観点から、映像の使用に正当性があると考えている。ホテルの許諾の有無に関わらず、だ。
伊藤さんが主張する政権や警察による不当な逮捕中止が本当にあったことならば、この事件は日本で暮らす人々全てに関わる話だ。そうした重大な疑惑に関わる資料は、人々の議論を促すために公表されることが望ましい。
伊藤さんと共に誓約書に署名した当時の代理人弁護士は、映画制作陣へ怒りを向けている。彼女の立場なら当然のことかもしれない。
ただ、この件は弁護士の職業倫理ではなく、民主主義、ジャーナリズムの観点で考えるべき話だ。何度も言うが、政権や警察が不当に逮捕を中止したという疑惑があるのだ。
性暴力があったことは既に民事訴訟で認定されているため、映像を公にする意義はないとする意見もあるが、公益性の高さは、常に法廷での判決と連動するものではない。民意は、法廷の手続きとは異なるプロセスで醸成されるからだ。
実際に、民事訴訟の1審で「性行為に同意がなかった」と認定された後でも、山口氏の代理人である北口雅章弁護士が防犯カメラ映像についてこのように言及している。※1
これは解釈の余地はあるかもしれませんけど、ホテルのビデオカメラで足を引きずられたというようなことが『Black Box』(筆者注:2018年に出版された伊藤さんの著書)に出てきますけど、そんな場面はどこにもありません。そういった、明らかにうそと分かっていることを、性的な被害者の、本当に受けた方がそんなうそをつくのかなというふうに、私は疑問に思います。
ごく一部の人しか防犯カメラの映像を見ることができない状態では、こうした発言によって人々が誤った認識を持つ可能性がある。
事実を明確にして、適切な形で民意形成を促していく──。防犯カメラの映像はこうしたジャーナリズムの実現のために重大な役割を果たすかもしれない。
ちなみに、ホテルのオーナーで映像の権利者であるマリオット・インターナショナルはウェブメディア「Japan Subculture Research Center」の取材で、日本での映画公開に反対するか、という質問に無回答という形で対応している。※2

画像引用元:マリオット・インターナショナルのホームページ
国連の「ビジネスと人権に関する指導原則」によると、企業はビジネスをするにあたり、人権侵害の防止策を講じると共に、万が一発生してしまった場合は被害者救済に協力する責任がある。※3
この原則に従えば、ホテルのような性暴力の現場になることが多い場所を運営する企業は、性暴力防止や被害者救済において一定の責任を負うことになる。特にマリオット・インターナショナルは世界最大のホテルチェーンであり、原則を率先して遵守すべき企業だ。
無数の人々から誹謗中傷やセカンドレイプを受けてきた伊藤さんが、自身の訴えの正しさを伝えるために映像の公表を望んでいる──。そこに協力しない理由を、マリオット・インターナショナルは説明する責任があるのではないだろうか。
2.警察官の音声
映画では、事件を担当し、逮捕中止の顛末を伊藤さんに明かした警察官(A氏とする)の音声が流されている。これを取材源の秘匿という観点から問題視する声がある。
A氏は今回の件で、「①事件捜査の担当者」「②逮捕中止の経緯を明かした情報提供者」「③事件担当を外れた後も伊藤さんと連絡を取る個人」という、3つの側面を持つ人物であり、これらは分けて考えるべきだろう。
まず、映画では伊藤さんが被害を相談した当初、A氏が冷たく突き放すような態度で伊藤さんに話す音声が使用されているが、これは「①事件捜査の担当者」としてのA氏だ。
A氏が捜査の担当であったことは、もともと警察組織が把握している事柄のため、取材源の秘匿の対象にならない。
また、捜査時のA氏と伊藤さんのやり取りの記録は、警察の性暴力被害者への対応を考えるための重要な資料であり、公表する価値が高いと言える。

一方A氏が、警視庁刑事部長(当時は中村格氏)の指示によって突然逮捕が中止となったことを伊藤さんへ伝えたという事実においては、A氏は「②逮捕中止の経緯を明かした情報提供者」であり、これは取材源の秘匿の対象になり得る。
ただ、この事実は2017年5月の週刊新潮の記事や、2018年に出版された書籍『Black Box』(文藝春秋)で既に公になっており、議論されるなら、初めて世に出た2017年5月の週刊新潮の記事について行われるべきだろう。※4
そして、「③事件担当を外れた後も伊藤さんと連絡を取る個人」としてのA氏は、「②逮捕中止の経緯を明かした情報提供者」であることが公になっている以上、取材源の秘匿の対象にすることは無意味だ。
この側面でのA氏の描き方は、玉虫色だ。伊藤さんへ「報道業界にいられなくなる」と忠告するA氏。実名での証言を懇願する伊藤さんに対し、仕事を失うからできないと返すA氏。「ちゃんとご飯食べているか」と体を気遣うA氏。「結婚してくれるなら証言する」と言うA氏。
伊藤さんは前出の書籍『Black Box』でA氏を「戦友」と表現し、「彼の道徳心はまっすぐなものだった」とも書いている。「結婚してくれるなら証言する」という恋愛的な対価を求める発言は、A氏に信頼を寄せていた伊藤さんにとって裏切られた気持ちになったかもしれない。また、捜査担当の警察官と被害者という関係を踏まえても、極めて不適切な発言だ。
伊藤さんが受けてきた多様な抑圧を伝えるためには、このA氏とのやり取りを映画に入れることは不可欠だったのではないだろうか。
この映画はジャーナリズムか
本映画について、これはジャーナリズムを追求していないドキュメンタリーであるため、公益性という観点を議論に持ち込むべきではないという意見がある。
この意見に反論しておきたい。
確かに、本映画は客観的なファクトを積み重ねて警察組織や当時の政権関係者の行動をつまびらかにするような内容ではない。伊藤さんの心情に焦点を当てた作品だ。
それでも、私はジャーナリズムの性格を帯びた映画だと捉えている。性暴力に遭い、警察や司法から守られず、実名と顔を公表して告発した伊藤さんが何を体験し、何を感じてきたか。そこに日本社会や人間に潜む闇、被害者への偏見を浮き彫りにする出来事が多々あった。そしてそうした出来事が、伊藤さんの心身や人生に重い影響を与えてきたという事実は、報道価値の高いファクトだ。
また、本映画で描かれている伊藤さんへ向けられた抑圧に似たものを経験している人もいるだろう。「理想の被害者像」を押し付けられたことがある人々の中には、この映画によって心を救われる人もいるかもしれない。
性暴力は、被害者と加害者だけに留まる問題ではない。被害者への偏見は根強く、社会の捉え方も未熟な状態だ。そうした中、被害者が監督かつ被写体として、被害者の視点で事件を描いた作品は貴重といえる。
伊藤さんは、2025年2月20日に出された声明で、問題と指摘されている映像、音声について個人が特定できないよう対処する、としている。一方、防犯カメラの映像は引き続き使用する姿勢を見せている。※5
冷静な議論のもと、本映画が日本で公開される日が来ることを願う。
【参照・引用元】
サムネイル画像:アメリカ版AmazonPrimeVideoより引用
(執筆:北川真梨)
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